教育現場の今とこれから
皆さんは、どこまで学校に通いましたか?もちろん年齢や世代によって差はあるものの、ほとんどの方は小学校、中学校には通い、卒業をしてきたのではないかと思います。それというのも、日本国憲法の統治下にある日本に置いては、小学校中学校の合計九年間の教育を受けさせる事は、義務として定められているためです。よく勘違いされがちですが、この義務というのはあくまでも「教育を受けさせる義務」であり、「教育を受ける義務」ではないので、しっかりと覚えておきましょう。さて、勤労と納税に続く3つ目の義務となっているこの教育、果たしてどういった面において、これほどまでに重視されているのでしょうか。まず、何と言っても教育をすることによって重要なのは、正しい知識を子供たちに伝達し、次代を担う事のできる知識を備えた大人への成長を促すことがその第一条件となります。とはいえ、教育を受ける子供たちが将来どのように生きて行くことを選択するのか、それはまだまだ小学校や中学校などの幼い時分には、周りの大人も、ひいては本人さえもはっきりとは分かっていないものです。それなのに、この小学校中学校で、あたかも専門的な知識を教えていくことは出来ません。そこで、小学校において教えられることは、日常生活を送る上で必要な知識であり、これだけのことを把握していれば、最低限日常生活を送る分にはそれほど困ることはないというのが1つの水準となっています。そして中学校においては、多少専門的になり、数学や理科などについては一部学問的な部分を含んでは来るものの、基本的には基礎教養的なことが教えられることになります。そもそも、この義務教育に於いて優先されるべきはむしろ、授業による学業の習得よりは、生活指導による社会的常識の獲得の方にあります。何も3歳ではないので少し違っては来ますが、三つ子の魂百までと申しますように、子供時代に確立した人格というのは、一生の間の基礎の部分となることになります。そのため、社会的な常識を備え、公共の福祉を守ることのできる、健全な人材を養育するというのが、この義務教育において最も求められる部分であると同時に、今現在、最も達成できていない部分であると言えるでしょう。それというのにも、様々な原因があると思います。昭和の時代であれば、教師というのはある意味聖職者であり、親からも子供からも、尊敬されると同時に、少々の畏怖をされる存在でもあり、威厳に満ちた職業でありました。ですが、マスメディアの発達により、多くの教師による不祥事が発覚したり、あるいは社会情勢がわかり易くなることによって、教師がそこまでの威厳を備えているような存在ではないという認識が広がり、教師全体に対する信用が失墜しつつあるというのが、1つの問題です。自分のせいであれ、社会のせいであれ、信用を失った教師の話は、親はおろか子供たちからもそれほど真面目に聞かれなくなってしまいます。その結果引き起こされるのが、学級崩壊などの大きな問題です。学級崩壊の原因は、ほぼ間違いなく「児童・生徒が教師をナメてかかっている」ということであると言えるでしょう。彼らが教師のことを尊敬せず、信用していないがために、どのようなことを教師が言っても聞かず、結果として学級が崩壊、生活指導はおろか授業すらまともに行えなくなってしまうことがあります。こうした時、一番問題なのは学級を崩壊させている原因となる児童でもなければ、教師でもありません。一番の問題は、児童たちの親に存在しているといえます。親達は、自分たちの経験や、あるいはマスメディアから受ける情報により、教師を信用せず、それを何気なく子供に話してしまうのでしょう。そうしたことで、不信の連鎖が巻き起こり、子供もまた教師に不信感を抱くようになってしまうのです。こうした問題を解決するためには、まずは親達の考え方が変わらねばなりませんし、そのためには、マスメディアによる協力が必要不可欠であると言えるでしょう。教師の信用が失墜すること自体が問題ではありません。学級崩壊によって、「学びたいのに学べない」子供が出てくることは、最大の問題です。子供たちには「教育を受ける義務」はありませんが、「教育を受ける権利」は確かに所有しているのですから、これらが侵害されている可能性のある現代は、間違いなく歪んでいると言わざるをえないでしょう。……このように、崩壊した学級であれ、義務教育中は大病などの明確な原因がなければ留年することは無いため、必要な知識や常識、自立心などを学ばないまま、学年は上へ上へと登っていき、いつしか全くもって国の定める教育水準に達していない、全国的に見れば「落ちこぼれ」の子供たちが発生することになります。そうしたときに困ってくるのが、日本の社会構造です。日本の社会構造は、ここ十数年の間で多少なりとも改善しつつはあるとはいえ、基本的には「学歴社会」であり、「学歴偏重主義」であるため、高等学校、ひいては大学まで卒業していない場合、ロクな仕事に就職することが出来なくなってしまうのです。学歴というのは、生きて行く上で必ずしも必要なものではありませんが、できるだけ自分の思うような人生を歩んでいくためには、必要なものです。選択肢を広げるためにも、最低でも高等学校は卒業しておきたい、という子供、あるいは親がほとんどであるのですが、このような崩壊した学級に学んでいた場合、高等学校への受験の時点で大きなハンデキャップを背負うことになってしまいます。ソレもそのはず、崩壊していない学級に学んでいた場合に比べて、圧倒的に勉強していないのですから、そういった人達に勝てるわけがありません。現在、高等学校の授業料や教材費等は公立であれ私立であれ無償化され、貧富の格差によって高等学校に進むことが出来ないということはほとんどなくなりました。それであっても、学力の格差によって希望の高等学校に進むことができない、というのはむしろ顕著な問題となりつつあります。高等学校の選択は、生涯に学ぶ学習の度合いに大きな違いを生み出す要素です。例えば、地元で一番の進学校に入学したのであれば、きっとその学習の密度は濃く、より良い大学へ進むことも出来るでしょうし、学問の習熟度もかなり高いものとなるでしょう。しかしその反面で、もしも「底辺」のような高校に進んでしまったならば、授業で取り扱われる題材は中学校のものと大して変わらないようなレベルであるでしょう。そうした環境の中から、いわゆる「上位」の大学へと進学するのは、よりハードルが高いことになってしまいます。そのため、この高校の選択というのは、学歴社会である日本で生きていくのならば、ひいては人生全体に対して大きな役割を担っているのです。こうしたことを防ぐためにも、我々は一丸となって教育体制を整え、子供たちがよりよい環境で学ぶことが出来るようにしていかなければならないでしょう。
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大学での学問
さて、ここからはそんな高等学校時代での勉強を終え、大学へと進学した時に、どのような勉強が為されるのか?ということについてです。先ほどの説明は途中から教育環境についてにシフトしてしまっていたため、ここで改めてまとめますと、小学校は基礎的な事を、中学校は応用的な事を、高校では専門性の入り口を学ぶということになります。そしてこの大学で学ぶのは、ついに「専門」となる部分になってきます。小学校中学校高校は、多くの場合は「普通科」という、いろいろな分野について広く浅く学ぶという学校であることが多いのですが、この大学に関しては「普通科」というものはなく、何かしらの専門を決めて学問していくことになります。まずこの大学での専門には3つの分類があり、「文型大学」「理系大学」「その他専門系大学」となります。文系大学に於いて教えられるのは、基本的には「人文科学」(人間と文化を研究する)と「社会科学」(社会構造と歴史を研究する)になります。そして理系大学に於いて教えられるのは「自然科学」(世界の理を追求する)になります。さらに、専門系大学においては、体育や芸術などの、より専門的な学問について学んでいくことになるでしょう。これらの学問にも、それぞれどういった働きがあるのか分類すれば、二種類の学問に分ける事ができます。それは「発展学問」と「研究学問」の2つです。前者の発展学問は、要するにその学問を研究し、新たなことを追求していく上で、社会に対して何かしらの発展をもたらす事のできる分野になります。例えば物理学などを研究することに依って、あらたな交通手段が生まれたり、というのがこれにあたります。そして反対に「研究学問」とは、研究することそれ自体が目的であり、それによって社会などが発展することは求めていないものです。これらは主に文化の形成に関わり、我々の知的好奇心や、起源に迫る教養へと影響を与えてくれることでしょう。そんな学問から、今回は3つの分野について詳しく紹介したいと思います。今回紹介するのは「考古学」「政治学」「経済学」の3つについてです。考古学は研究学問であり、経済学は発展学問、そして政治学はその中間に位置するものであるということができるでしょう。それでは、是非1つの教養として、お付き合い下されば幸いです。
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